10月29日に放送されたNHK朝ドラ『ばけばけ』の中で、ヘブン先生が生卵9個を一気に飲み干すシーンがあった。じつはいま、このシーンがちょっとした話題になっているそうだ。ヘブン先生のモデルとされるのは、『怪談』の作者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であり、ハーンは実際に大の卵好きだったと伝えられている。
ヘブン先生が生卵を飲むシーン
ただし、ハーンがよく食べたのは、ゆで卵やオムレツ、目玉焼きなどであり、“生卵”を食べたという記録はない。そもそも、世界中で生卵を食べている国は日本くらいのものであり、海外ではあり得ない話なのだ。漫画家のヤマザキマリがかつてエッセイの中で、ポルトガル滞在中にそうとは知らずに生卵を食べたところ、サルモネラ菌に当たって散々な目にあったと書いていたが、その通りなのだ。
今日、日本で流通している卵は、親鶏の段階から徹底した安全対策が取られており、産み立ての卵からもサルモネラ菌が検出されることはまずない。さらに、洗浄・殺菌から包装・配送・販売まで一貫した衛生管理体制が厳格に運用されているからこそ、生卵をご飯にかけるTKG(卵かけご飯)などでも安心して食べることが出来るのだ。海外ではそこまで徹底してはおらず、危険を避けるため生では食べないものなのだ。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ
ハーンはヨーロッパの先住民であるケルト人の血を引いており、もしかして独自の文化的風習で例外的に食べるのかと思って調べてみたが、やはりそういうことはないらしい。どうやらこれは、単にヘブン先生の卵好きを強調するためのドラマ上の演出だったということか。それはともかくとして、欧米人が生卵を飲むというシーンは、多くの人にもうひとつの別の先例を思い起こさせたようなのだ。
生卵を飲み干す、シルベスター・スタローン
それは、1976年に公開された映画『ロッキー』である。世界タイトルマッチへ向け過酷なトレーニングを積むロッキーが、貧しい生活の中で効率よく栄養を摂るために、5~6個の生卵をグラスに割り、一気飲みするシーンだ。世界中がこのシーンに度肝を抜かれるほど驚いたという。筆者もこの映画は観たが、たしかにこれには驚かされた。ただ、多くの日本人がそうだったと思うが、ずいぶんたくさんの卵を飲むものだなあという、“量”に対する驚きである。
ところが、世界の反応は違った。生卵という超危険で不衛生な食べ物を口に入れるという、“行為”そのものに対する驚きである。このようなシーンがあえて挿入された意図は、無名の三流ボクサーが世界タイトルマッチという千載一遇のチャンスに、“命を懸けて挑む”という、覚悟と本気度の象徴としての意味を込めてのことだったという。
主演のシルベスター・スタローンは、当時まったく売れない無名俳優だった。さすがにこのシーンには難色を示したというが、特別ボーナスを弾んでもらうということで、渋々ながらも承諾したらしい。その後、映画は世界中で大ヒット。続作シリーズが作られるほどの人気となり、スタローンは一気にスーパースターへの道を歩み出す。まさに、命を懸けて挑んだ演技のたまものだったと言えよう。
では、日本において生卵が食べられるようになったのは、いつの頃からなのだろうか?一般庶民が卵を食べるようになったのは、養鶏が盛んになり始めた江戸時代後期のこととされるが、卵焼きなどの加熱調理がほとんどだったという。卵を生で食べる習慣は明治以降に「すき焼き」が人気となり、牛肉を生卵に浸けるという食べ方が生み出されたことが大きい。
「すき焼き」と生卵
ただし、当時はそれほど衛生管理面が徹底されていたわけではなく、それなりのリスクを含んでいたものと考えられている。現在のような洗卵・殺菌・検卵や賞味期限の設定など日本独自の衛生管理制度が整備され、誰もが安心して生卵をTKGなどで食べられるようになるのは、ようやく1970年代以降のことなのである。
さて、生卵そのものをワインと合わせるというのは、さすがに難しい。あまり相性が良くないのである。とは言うものの、前記のすき焼きのような食べ方ならば話は別だ。生卵が熱々の牛肉をほど良く冷まし、濃い目の割下をまろやかにし、肉と卵が一体になった味わいとなるので、赤のカベルネ・ソーヴィニヨンやシラーなどと最高の相性となるのだ。ということで、やや甘めのシチリア産シラーを一本、巻末に挙げておいた次第である。
「松屋」のプルコギ定食
もうひとつおすすめしたいのが、「プルコギ」と生卵の組み合わせである。プルコギは、ニンニクの効いた甘辛い醤油ダレに漬け込んだ牛肉を専用の鉄鍋で焼き上げる、韓国を代表する肉料理だ。上記「松屋」の定食メニューにもあるように、これが生卵と良く合うのである。本場韓国ではこのような食べ方はしないらしいが、日本独自の“すき焼き風プルコギ”として、これもまた一興である。シチリア産シラーとも相性抜群なので、ぜひお試しのほどを。

アランチョ シラー(Arancio Syrah)
生産地:イタリア・シチリア州
生産者:フェウド・アランチョ
品 種:シラー
価格帯:1150円(税抜)~
