“知の巨人”と呼ばれたのは、2021年(令和3年)に亡くなったノンフィクション作家・ジャーナリストの立花隆だ。前回の<vol.92>で『地獄の黙示録』の映画評についてふれた際、彼が無類のワイン好きとしても知られていたことを思い出してしまった。今回は、そのことについて述べてみたい。
東京都文京区の“猫ビル”
立花隆が事務所・仕事場としていたのは、東京都文京区小石川にある通称“猫ビル”と呼ばれる建物だ。地上3階・地下1階の内部にはかつて、10万冊といわれる膨大な書籍が全階にあふれんばかりに収められていたことはよく知られている。じつはこの建物には、地下1階の床下から梯子で降りられる、地下2階に相当する収納空間が設けられていたのだ。
その空間が何に使われていたのかというと、これがなんと!ワインの貯蔵庫、つまり“ワインカーブ”としてだったのだ。そこには、彼が生前に集めたブルゴーニュやボルドーなどの貴重なワインの数々が、所狭しと並べられていたと伝えられている。彼の死後、大量の書籍類が古書店へ譲渡されたことは知られているが、ワインがどのように扱われたかについては不明である。
立花隆『思索紀行/ぼくはこんな旅をしてきた』によると、彼とワインとの出合いは1960年(昭和35年)、60年安保の年に19歳で体験したヨーロッパ貧乏旅行においてである。友人と二人で、ほとんど無銭旅行に近いかたちで“原水爆反対映画”を各地で上映行脚するという自ら企画した旅の途中、パリを訪れた際のことだ。
とにかくお金のない旅だったので、街のエピスリー(épicerie)=食料品店で一番安いワインとフランスパンとチーズを買い、セーヌ川の河畔に腰かけて昼食を取ったとある。そしてこのときの食事が、全旅行中でもっとも美味しい食事だったと述懐しているのだ。たしかにこの取り合わせは、ワインを味わうということにおいてシンプルだが最高の3品である。原点にして究極の到達点という意味で、筆者もまったく同感である。
つい先日、NHKの番組でロマネ・コンティについてのドキュメンタリーを放送していたのだが、その中で「ロマネ・コンティに合わせる料理なし」という言葉が印象に残った。ワイン単独で完成された、孤高の味わいという意味なのだろう。ただし、唯一合わせるとしたら“一切れのパン”とも語られており、バゲットの切れ端のカリッと焼き上がった表面部分が示されていた。頂点のワインにおいても、やはりパンなのだ。以前に<vol.13>ではキリストの言葉も引用したが、それくらいパンとワインとは、不思議な絆で結びついたものなのだろう。
新宿ゴールデン街の「ガルガンチュア」
それはさておき、その後、立花隆は1970年代初頭、新宿ゴールデン街に「ガルガンチュア」というバーを友人たちと一緒に経営することとなる。“ガルガンチュア”とは、フランソワ・ラブレーの小説に登場する大食漢で大酒飲みの巨人だ。その名が示す通り、とにかく安く飲めて腹一杯食べられる店だったようで、ワインは山梨産の一升瓶ワイン(おそらくマスカット・ベーリーA)を常備してグラスに並々と注いで出していたらしい。この店は現在も同じ場所に存在するが、オーナーは何度か変わっている。
ワインに本格的に目覚めるのは1984年(昭和59年)、日本ソムリエ協会の田崎真也前会長(現名誉会長)が弱冠25歳で“ソムリエ日本一”の賞を受け、フランスの生産地招待旅行に招かれた際、これに同行取材したときの経験が大きい。この旅では、ブルゴーニュを中心に、ロワール地方などの銘醸地を巡っているが、一日30本以上の超高級ワインを試飲し、各地でとびきりの美食を味わうという、このうえない贅沢なものだったと前掲書に記されている。
とくにブルゴーニュでは、地質や気温、日当たり、風当たり、水はけなど、いわゆる“テロワール”(風土)の微妙な違いがワインに及ぼす影響について、行く先々の“グラン・クリュ”(特級格付)のワイナリーオーナーから直接の説明を受け、非常に感銘を受けたことが述べられている。後年、立花隆はブルゴーニュに別荘を購入し、毎年夏をここで過ごすほどだったという。
小石川の「遠州屋」
そのようにして、ワイン愛好家としての側面を持つようになった立花隆だが、“食”に対するこだわりはそれほどではなく、決して美食家というわけではなかったらしい。高級レストランの類いを訪れることはほとんどなく、もっぱら行きつけにしていたのは、仕事場と同じ小石川にある「遠州屋」という庶民向けの居酒屋である。
遠州屋の「モツ煮込」
中でもとくに好んで食べていたのが、「モツ煮込」だったそうだ。モツ煮込については以前に<vol.59>でも述べたが、作家の開高健も“世界に通用するシチュー”であると絶賛しているほどだ。もちろんワインとの相性も抜群だが、この店は焼酎やハイボール、日本酒が中心で、辛うじてチリのデイリーワインが置いてある程度である。
遠州屋のメニュー
そうはいっても、その店ならではの雰囲気に合わせてワインを味わうことも大切である。おそらく、立花隆もメニューにあるチリ産ワインを飲みながら、モツ煮込を美味しく味わっていたに違いない。ということで、今回はリーズナブルで手に入りやすいチリワインを一本、下記に挙げておいた。モツ煮込と合わせてみれば、ほんの一瞬でも“知の巨人”の知性の片鱗が感じられるのではないかと思っている。

コノスル オーガニック(Cono Sur Organic)
生産地:チリ・セントラルヴァレー
生産者:ヴィーニャ・コノスル
品 種:カベルネ・ソーヴィニヨン+カルメネール+シラー
価格帯:1200円(税抜)~

